「無心になれ」というアドバイスはあらゆる場所で
聞きますが、そう言われて無心になれるなら、あるいは
自分で考えてなれるなら、みんなとっくになっていますよね。

この方法ではなれないからこそ、「無心になれ」という言葉が、
武道や宗教など、あらゆるジャンルで何千年も語られているの
です。では、どうすれば私たちは無心になれるのでしょうか。

一休さん

音声も撮ったので、聞きながらだと、わかりやすいと思います。
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■「無心になれなくてもいい」という心境に達する

言葉遊びのようですが、「無心になれなくてもいいや」と
思うと逆に無心になれます。というのは、世の中で一番無心な
人間というのは赤ん坊なのです。そして、赤ん坊が何を
考えているかというと「何も考えていない」のです。

彼らの世界には「人間はこうでなければいけない」という理想が
何もないのです。「お腹減った」「おしっこが出ておむつが
気持ち悪い」「お母さんはどこだ!」ということしか考えて
いないのです。

ある意味ただの動物なのですが、動物だからこそ無心に
なれるんですね。

そう、赤ん坊だけではなく動物もみんな無心なのです。
無心になるということは動物になるということであり、人間しか
考えないようなこと(「無心になる」もその一つ)を全部
忘れることなんですね。


■でも、人間は動物になっては生きていけない

とは言っても私たちには仕事やプライベートの人間関係があるので、
実際には動物になることはできません。一部の天才はそれでも
通じますし、凡人でも一時的にそれでやっていけることはあります。

しかし、ずっと年中無休でそれをデキるという人は
ほとんどいないのです。

だから私たちはどうしたらいいのかというと「無心に
なれなくてもいい」と考えるのが一番なんですね。これは別に
いま私が考えたことではなく、昔からあらゆる国の宗教や哲学、
あるいは成功者の言葉で言われてきたことなのです。

たとえば仏教の歴史で一番有名な人の一人は、浄土真宗を開いた
親鸞でしょう。五木寛之さんの小説でも人気です。しかし、その
親鸞が何を語っていたかというと「自分は悟りなど開けない
(もう諦めた)」といつも言っていたんですね。

そして、彼は肉も食べていたし、結婚もしていました。

親鸞だけではなく、一休さんなどもそうです。一休さんなどは
とてもここでは書けないような18禁の行動の数々をわざわざ
記録に残したりしています。「悟りなど知ったことか」という態度を
地で行っていたのです。誰よりも凡人だったんですね。

でも、ただの凡人と親鸞、一休さんは何が違うのかというと「自分が
凡人だということを、はっきりと自覚していた」ということなのです。
そして「それでもいい」と強い気持ちで、自分が凡人であることを
認めたんですね。つまり「強い凡人」ということです。

私たちが「無心になどなれない」と覚悟することは、諦めるの
ではなく、こういう「強い凡人」になるということなのです。