ビジネスをする動機が不純なものという人は多いでしょう。
私もすべてではないですが、不純な部分も多少あります(笑)。
偉大な成功者を見ても、はじめの動機は案外不純だったことも
多いものです。ただ、これはいいことなんですね。

それを仏教の視点から紹介します(別に仏教徒ではないですが)。

欲望

音声も撮ったので、聞きながらだと、わかりやすいと思います。
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■すべての欲望を肯定していた真言宗

真言宗という宗派の名前は、誰もが聞いたことがあるでしょう。
中学歴史でも太字で「空海、真言宗」という単語を覚えさせられる
くらい、仏教の歴史を代表する宗派です。

この真言宗の経典の中に「理趣経」というものがあります。この
『理趣経』に何が書かれているかというと、ありとあらゆる欲望を
肯定しているんですね。その一部を現代語で紹介すると、

「異性を見て欲情することは菩薩の境地である」
「男女が交わって天に登る心地になるのは、菩薩の境地である」
「その他、五感が満たされて喜ぶことは菩薩の境地である」

というものです。性欲を中心にして、人間が五感を満たしたり、
何かを強く求めたりすることを、はっきりと肯定しています。


■危険な経典として封印された

このように仏教のイメージを大きく覆す経典だったので、仏教の
世界では危険視されていて、一部の僧侶が見られる以外は、完全に
封印されていました。しかし、『理趣経』は封印されていても、
同じようなことは親鸞など主要な僧侶がやはり主張していたんですね。

親鸞は「悟りなど開けない」ということをある時期に自覚し、
それからは肉も食べたし、女性と結婚もしました
(もちろん、夜の営みもしました)。

親鸞は浄土真宗の開祖として、空海にも並ぶくらい有名な
僧侶ですが、彼もやはり欲望を肯定していたんですね。

他にも一休や良寛などこういうタイプの僧侶は日本史に
たくさんいるのですが、彼らの生きかたや主張を見ていても
わかる通り、人間にとって欲望というのは自然なものなのです。

そもそも、性欲を否定する僧侶たちの肉体がどのようにして
生まれたのかといえば、当然両親の夜の営みによって生まれたのです。

親は違う人かも知れませんが、それでも男女の営みで生まれたことは、
科学的な事実です。それを否定するということは、自分の肉体を
否定するということなんですね。自分の肉体を否定している人に、
命を説けるはずがないのです。

ということに気づいた親鸞たちは、人間の欲望を肯定したんですね。
なので、私たちビジネスをする人間ももっと自分の欲望を
肯定すべきだと思うのです。

欲望を中途半端にくすぶらせるのではなく、それを燃料にして、
最大の力でもって欲望を実現するべきなんですね。

そういう生きかたを私はしたいと思っています。