数年前、サッカーの長谷部選手の「心を整える」という本が
ベストセラーになったことを記憶している人も多いでしょう。

ここでは「心を整える」というのはどういうことなのかを
あらためて考えてみたいと思います。

心

音声も撮ったので、聞きながらだと、わかりやすいと思います。
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■心が完全に整うことなどない

まず私が思うのは、ほとんどの人はこころを完全に整えること
などできないということです。

もちろん、できないという物理的な理由や科学的な理由はない
のですが、これまでに挑戦してきた歴史の中の僧侶たちでも、
その中のトップレベルの人たちでもできなかったからです。

というより、トップレベルの人たちほど「自分はできない」と
はっきり言ったんですね。中途半端な僧侶や宗教者ほど、
むしろできると言っていたわけです。事件を起こした宗教団体の
教祖などがその一番いい例ですが。


■悟りを開けないという悟り

私はいろんなところでよく親鸞や一休の話をしますが、彼らは
「悟りを開けない、という悟り」を開いていたんですね。

二人共誰よりも仏道を極めようとしていた人で、特に親鸞が
若い頃というのは比叡山を代表するようなエリートだったのですが、
そのエリートが「もう悟りを開くのは無理だ」とあきらめて、
肉を食べるようになったり、奥さんをめとるようになったり
したわけです。一休にいたっては風俗遊びまでしています。


■「諦める」の語源と、本当の意味

実は諦めるという言葉の語源をたどると、元はマイナスの
意味ではなかったんですね。

元はあきらめるは「明らめる」と書きました。つまり、
「物事を明らかにする」ということです。「自分に必要な仕事、
必要でない仕事」などの線引きを明らかにしたんですね。

そして「必要でない仕事」については「できない、やる必要も
ない」ということをはっきり決めるというのが、「あきらめる」
ということだったのです。

だから、これまただいぶ前にヒットした曲ですが、華原朋美さんの
「あきらめましょう」という歌がありました。あの歌詞の通り
「あきらめてスッキリする」というのは大事なんですね。

心を整えるというのは、長谷部選手のように鍛えられた人であれば、
かなりのレベルでできるのでしょう。

しかし、そもそも「心を整える」の重要性を説いている時点で、
長谷部選手だって心が揺れることがあるということです。
(もちろん、人間なんだから当たり前ですし、それはむしろいい
ことです)

なので、心を整えるということは完璧にできる必要はないんですね。
あえて散らかしたままにするという収納法があるように、心が
少し乱れたままで毎日を生きるというのも、また悪くはないのです。