私たちはギリシャ語で「バカ」ということができません。
というと何のことかわからないかも知れませんが、これは
失言がどこから来るかを考える時の大きなヒントです。
詳しく説明します。
音声も撮ったので、聞きながらだと、わかりやすいと思います。
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■心の中にない言葉は、失言でも絶対に出てこない
失言をした大臣などがよく「そんなことは思って
いなかった」といいますが、それは絶対にありません。
上に書いた「ギリシャ語のバカという単語」のように、
頭の中にない言葉は口に出しようがないからです。
口から出たという時点で、頭の中にその単語があった
という証拠なのです。もちろん、誰だって汚い単語が
頭の中にそれなりの数はあります。
しかし、その頻度は人それぞれです。そういう単語を
知っていたとしても、四六時中それが浮かんでいる人と、
そうでない人では天と地の差があるんですね。
当然四六時中浮かんでいる人の方が、それが
口に出ることが多くなります。
なので、重要な場面、とっさの場面でそういう単語が
出てきたということ自体が、「その人の頭の中に、
いつもそういう言葉がある」ということの証明なのです。
とっさの場面だからこそ、その人の人格がモロに
出てしまうのです。
■きれいなことを考えるにはどうすればいいのか
とっさの場面でもきれいな言葉、人のモチベーションを
高めるような言葉を口にするには、日頃からそういう
言葉で脳内を埋めておく必要があります。
そのためにはどうすればいいかというと、そういう言葉を
たくさん書いたり、口に出したりすることです。
ここまで聞いて、キリスト教徒のお祈りや仏教徒の念仏、
写経などを連想した人もいるかも知れません。
まったくその通りで、実は彼らがこういうことを
していたのは、「脳内をきれいな言葉でうめつくすため」
だったのです。
文字を書くとか声を出すという動作をしている以上、
その時間はその人の言語野はその言葉で埋め尽くされて
います。
「私は人生を楽しんでいます」と口にしながら
ネガティブな事を考えるというのは、どうしても難しい
からです。
(少なくとも、無言の時より断然難しくなります)
なので、写経とか聖書を朗読するというのは、非科学的な
迷信ではなく、実は脳科学的にも意味のある訓練
だったんですね。
別に私は宗教に入ってはいないですし、入る気も
さらさらないですし、すすめる気もありません。
ただ、彼らのやっている「トレーニング」は、私たちの
マインド改造にもそのまま使えるということです。
マインドは物理的に鍛えることができるのです。
筋肉のように。